Archive for the ‘宗教・民族’ Category
2020/08/10【宗教でしか答えられないものとは】
ある病院関係者の方が、コロナ禍で「死とは何か」ということを普段以上に考えるようになったと話していました。
その方は、仕事柄、患者さんの死に接することが少なくないため、これまでにも「死」の意味を漠然と考えることがあったそうです。
しかし、それはあくまでも仕事上のことで、ご自身の生活では実感がなかったそうです。
そこへ今回のコロナ禍で、病院関係者が感染して亡くなったと海外のニュースなどで見聞きする度に、死というものが更に身近に感じられるようになったと言います。
そこで医学関連の書籍などを改めて調べてみたところ、心療内科や緩和ケアの分野で一部、死に関する記述はあったものの、納得のいく答えは見つからなかったそうです。
それはそうです、現代の医学は死ぬまでが担当領域であり、死んだ後のことは何も分かっていないのも同然だからです。
「死とは何か」ということの答えは、宗教の中にあるからです。
霊的真実からすれば、人は死によってこの世での肉体修行を終えた後も、霊としてあの世に還ってからの生活が厳然としてあります。
「死ねば何もかも終わり」という唯物的な人生観を脱して、「この世とあの世を貫く幸福」という霊的人生観に目覚めることが「死とは何か」を考える縁になります。
今こそ、宗教の意義を身近なものとして考える機会ではないでしょうか。
2019/12/14【祈りはあの世に通じる】
中央省庁の元事務次官が長男を殺害した事件の裁判が続いています。
日本のエリートのトップである事務次官を経験した人物が起こした事件であり注目が集まっています。
被告は、長年に渡り発達障害の長男の家庭内暴力への対応に追われる中で、妻がうつ病になった他、長男が原因で長女が自殺するなど、同情されるべき点があることは事実です。
一方で、いくら同情の余地がるとはいえ、殺人という大きな罪を犯したことは事実であり、その償いをするのも当然でしょう。
この裁判について、NHKは被告のある言葉を報道していました。
それは、「息子のために、毎日祈ってばかりいます。息子があの世で穏やかな日々を過ごせるよう、これからも祈りをささげるのが私の務めだと思っております」という言葉です。
NHKとしては、被告の反省の気持ちを伝える意味でこの言葉を紹介したのでしょう。
実は、「祈り」という言葉の中には霊的な真実が含まれています。
私達地上の人間が、亡くなった方のあの世での生活に思いをはせることは、遺された人の単なる気休めではありません。
この世の人間の祈りは、霊界に通じます。
「波長同通の法則」によって、自らの「思い」と同じ波長の世界に通じるものなのです。
ですから、真の宗教は、「思い」を神仏の視点で善悪の点検をすること、天国に通じるように「思い」を純化することを説いているのです。
思いの力、魂、心、見えない世界、あの世の存在を認めることは、この世とあの世を貫く幸福に繋がるということを、多くの人に知って頂きたいと思います。
2019/10/25【宗教的存在としての皇室の大切さ】
天皇陛下の即位の礼がつつがなく執り行われました。
心よりお祝い申し上げるとともに、日本人として長きに渡る皇室の伝統を誇りに感じます。
今回の即位の礼は、国事行為として行う儀式と、そうではない儀式があります。
これについて、ある報道機関が「政教分離の規定があるから」とし、「特定の宗教への信仰を助長しないため、宗教性の高い儀式に国は関わらない」とその理由を説明していました。
しかし、憲法の政教分離の規定は、戦前戦中の反省から、国が宗教に介入すること、あるいは関与することを排除するのが主旨です。
これは内閣法制局も認めている見解であり、信仰の助長云々とは少し主旨が異なります。
そもそも、天皇は極めて宗教的な存在ですから、天皇が関わる全ての儀式から宗教性を取り除いてしまうと、天皇の存在自体が揺らいでしまうことにもなりかねません。
皇室は、長い歴史を持つ日本の国柄そのものに他ならないわけですから、宗教的・文化的存在としての皇室を尊重すべきと思います。
【参考】:10月22日付幸福実現党プレスリリース「即位礼正殿の儀にあたって(党声明)」https://info.hr-party.jp/press-release/2019/10195/
2019/10/15【どんなにAIが進化しても「魂の救済」はできません】
ある寺院が説法をアンドロイドが行う取り組みを始めたとのことです(※)。
お寺は檀家の減少などで衰退が危惧されているので、こうした新たな取り組みで話題を作ろうということなのかもしれません。
ただ、この記事には「アンドロイドの不死性を強調」や「仏教は神への信仰ではなく仏陀の道を追求するもの」といった言葉が躍っていることからも分かるように、「仏教は宗教ではなく哲学的思想なのだ」といった考え方が根底にあるように思われます。
このままでは、アンドロイドやAIといった技術が一般化すればするほど、供養などの「魂の救済」の重要性が軽んじられ、寺院そのものの存在意義が失われ、寺離れが進んでいくのではないでしょうか。
仏教がなぜ2千5百年以上も信仰されているのか、それは仏陀が霊的人生観を通じて人間完成の道を説いたからです。
魂は永遠であり、人間は生き通しの生命を宿して、人生の目的と使命を持って転生輪廻を繰り返しながら、智慧を高めて仏に近づいていくという真理が仏陀釈尊の教えです。
しかし、仏教の「無我」を無霊魂だと誤った解釈をしたり、仏陀が説いた教えの中で霊的なものは全て比喩にすぎないと取り除いたりして、仏教思想にこの世限りの人生観を持ち込んだところで、本当の意味で人々の魂を救うことができないことは明白です。
人間の本質は霊であるという原則に立ち返れば、どんなにAIが進化しても「魂の救済」はできません。
科学時術は宗教の代わりはできません。
「人間には信仰の本能がある」と言われています。
人類史を紐解いてみても、あの世や霊魂の存在を信じることは、時代や国を超えて連綿と続く真理です。
※:10月14日付CNNニュースhttps://www.cnn.co.jp/tech/35142333.html
2019/08/03【愛は憎しみを超えて】
8月2日、3日は新潟県長岡市で、全国的に有名な長岡花火が開催されています。
3尺玉をはじめ両日で2万発もの花火が打ち上げられ、日本全国から百万人以上もの観客が訪れます。
最近では中越地震などの震災復興のイメージが強い長岡花火ですが、もともとは太平洋戦争末期の長岡空襲による犠牲者を偲んで戦後に行われるようになった花火大会です。
1945年8月1日の長岡空襲では、100機以上の米軍爆撃機「B-29」が来襲し、1千トン近い爆弾が投下され、長岡市が確認しているだけで1488名もの方々が犠牲になりました。
当時の長岡市は、軍事物資を生産していた工場などがありましたが、投下された爆弾の多くが、焼夷弾であったことからも分かる通り、米軍は市民の無差別殺傷も目的としていました。
実際に米軍は、他の地域の爆撃では事前にビラをまくなどして、その地域が爆撃対象であることを知らせて、一般市民の退避を促すこともありましたが、長岡市では事前の警告もなく爆撃が行われ、多くの市民が犠牲になりました。
長岡花火は、空襲で亡くなられた方々への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いを込めて行われるようになったのです。
そして、今では米国をはじめ世界から観客が訪れるまでになり、当時の憎悪にも似たわだかまりも解消されるに至ったと言えるのではないでしょうか。
一方、日本の周辺には、戦前戦中の日本との関係から、未だに憎しみや嫉妬の感情から抜け出せていないように見える国もあります。
中には、「千年経っても加害者と被害者の関係は変わらない」として自国民に憎悪を焚きつける指導者もいましたし、未だに日本に対し「盗人たけだけしい」と言葉を荒げる指導者もいます。
背景には、全ての責任を他に転嫁することで自国民の支持を得たいというポピュリズムが見え隠れします。
しかし、現在の日米関係や日台の国民の感情などを見れば、こうした国々が反日感情を超えて日本と友好な関係を築いていく手だてはあると思います。
そのキーワードは「愛は憎しみを超えて」という宗教的精神であると考えます。