老後に年金の他に2千万円を蓄える自助努力が必要とする金融庁の審議会の指針が波紋を呼んでいます。
政府は誤解を招き表現が不適切だったとしていますが、野党などからは「政府が自助努力を促すのは公的な責任を放棄している」などと批判が上がっています。
不足分を補うには、現役時に資産形成をする他に、年金額を上げる、税金を下げる、生涯現役で働き続けられるようにするなどが考えられます。
この内、生涯現役と資産形成の部分は自助努力に相当し、左翼的な考え方からすると好ましくないと批判されているようです。
その理由は「自助努力」という言葉を「弱者切り捨て」と同義にとらえているからのようです。
しかし、本来は自助努力をすることは生きていく上で当然必要な精神であって、批判されるべき言葉ではありません。
もちろん、努力の結果がどのように現われるかには人によって違いがありますし、事態によっては政府がセイフティーネットを提供しなくてはならないこともあります。
但し、政府が一律に面倒をみることが当たり前になると、社会から活力が失われ、貧しさの平等が広がることになります。
また、平均寿命が伸びる中では、年金制度の抜本的な見直しを避けて通れません。
その見直しの中で、自助努力を否定し何もかもを政府に委ねるということは、自由を制限されるということでもあります。
今回の件で「自助努力」という表現を用いたことが適切とは思いませんが、政府は「自助努力」ができるような環境を整えることや、チャンスを提供するような社会を目指すべきと考えます。