ある紀行ドキュメンタリー番組で、日本人のテレビスタッフが、ギリシャのタクシードライバーに話を聞く場面がありました。
ギリシャは経済的に苦しい状況が続いていますが、敬けんなギリシャ正教徒のそのタクシードライバーは、若くして不幸に遭う人もいれば大人になって不幸に遭う人もいるという旨のある種の“無常観”を語りました。
それに対し日本人スタッフは、「それでも神を信じるんですか」と問いただしていました。
この言葉を発した日本人スタッフの方に悪意は無かったと思いますが、そこには信仰を持つ人への無理解が現れているような気がしましたし、信仰が前提の国の人からすれば国際常識から逸脱しているように感じられたのではないでしょうか。
「それでも神を信じるんですか」という言葉の裏には、「この世的な利益があれば信ずるし、なければ信じない」という損得勘定のみで判断するという価値観が現れているように思います。
しかし、人間は生まれてくる前にあの世で人生計画を立て、人生の目的と使命を持って生まれてきます。
そして、神仏の深遠な御心の前には、ちっぽけな人間の理解など及ぶはずもなく、だからこそ信仰者は全てを受け入れて日々を力強く生きていくのだという「信仰の優位」を自覚しています。
これが世界の宗教のスタンダードです。
ゆえに、世界の常識として、信仰に対する尊敬の念と、信仰者への正しい認識が必要です。
日本のジャーナリストが、世界の信仰者から現世利益だけを追い求める野蛮人と思われないように配慮が必要だと感じたエピソードでした。