サウジアラビア政府に批判的な記者が、当局によって殺害された疑惑が世界中から注目されています。
サウジアラビアは、ムハンマド皇太子のもと近代化への改革が進んではいるものの、中東の多くの国と同様、西欧流の民主化とは相容れない統治体制が残っているのが実情です。
そうした中、同記者は、中東諸国に表現の自由が無いことを憂い、自由の必要性を訴え続けていました。
いくら政権批判しても身に危害が及ぶことの無い日本などとは異なり、同記者は、ある意味、命がけで政権を批判していました。
一方、日本では、18日、日中のメディア交流会が開催され、相互理解を深めるためにメディア間の連携などを確認しました(※)。
しかし、中国には表現の自由が無く、中国のあらゆるメディアは中国共産党の指導下に置かれ、党の宣伝機関であるというのが実態ですが、そのことに懸念を示す日本のメディアがいたという報道はありませんでした。
中国の報道機関のあり方に疑問を抱く日本の記者の方は多いと思いますが、交流会という席上相応しくないと思ったのか、中国側におもねる発言が占めたようです。
しかし、報道人の命とも言える表現の自由を棚に上げて、真に交流を図るということができるものなのでしょうか。
表現の自由は、信教の自由から発した民主主義の大切な考え方ですから、むしろこういう時にこそ中国に対し表現の自由の大切さを訴えるべきだったのではないでしょうか。
そうした気骨ある記者こそが、真に自由・民主・信仰を守り、そして広げる力になると考えます。
※:10月19日付毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20181019/ddl/k15/040/072000c