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2018/08/14【語り継ぐべき戦時の記憶】

 先の大戦の末期には、日本本土は米軍の猛烈な空襲にさらされました。

 来襲する米軍機に対する迎撃は、陸海軍の航空隊が主体となりましたが、その他にも、国土と国民を守るために、多くの人々の行動がありました。
 

 その中で、あまり知られていませんが、陸軍徴用船「宇品丸」があります。
 

 米軍は、1945年の7月に入ると、日本本土上空の制空権をほぼ掌握し、爆撃機だけでなく、より小型の戦闘機をもって地上を攻撃するようになりました。

 米軍爆撃機による攻撃は絨毯爆撃と言われました。

 戦闘機による攻撃も目視の範囲で選択的に攻撃できるにもかかわらず、まさに‟絨毯”のように面的に行われ、軍事目標も民間人も区別なく「動くものなら何でも撃つ」と言われるくらいに、無差別に攻撃したとされます。

 実際、子供や女性が戦闘機の犠牲になった例は数知れません。

 

 そうした中、8月10日、新潟市も米軍の艦上戦闘機による空襲を受けました。

 当時、触雷により新潟港内で擱座していた宇品丸は、果敢に機関砲等で応戦しました。

 この空襲に対する日本側の有効な応戦は、動けない宇品丸だけだったとされ、米軍機の攻撃も宇品丸に集中しました。

 宇品丸は敵を1機撃墜したとされますが、自らも19人の犠牲者を出し炎上しました。
 

 もともと貨物船だった宇品丸は、防弾や被弾後の被害拡大防止処置も十分に施されていなかったでしょうし、武装していたとはいえ動けない船は、戦闘機にとって文字通り「鴨」といえるような存在でした。
 

 しかし、宇品丸が米軍機の攻撃を引き付けたために、新潟市民に大きな被害は出なかったとされます。

 身を賭して戦った宇品丸の乗組員や兵員に敬意と感謝の気持ちを表したいと思います。
 

 こうした、勇敢にも国民を守るために各地で行われた大小様々な戦闘の記録も、記憶に留め語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。