神奈川県の障害者施設で19人が殺害された事件から1年が経ちました。
この被害にあわれた方々やご家族・ご関係者のご心痛を考えますと、心が締め付けられる思いが致します。
報道によれば、被告の男は、「意思疎通がとれない障害者は生きていてもしかたがない」などとして凶行に臨んだようですが、被告のその考えは現在も変わっていないとのことです。
しかし、“人間というものは肉体こそ全て”という唯物論的な考え方に基づけば、「人間の機能として意思疎通ができない障害者は、生きていてもどうしようもない」という考えに陥ってしまうものなのでしょうか。
否、この考えは間違っていると確信する出来事があります。
私の知人に、脳が委縮し言語喪失の状態などと診断された意思疎通ができない家族をお持ちの方がいます。
その方は、「医学的には意思疎通ができないことになってはいても、様々な場面で本人の意思を感じる」と話します。
「医学的にはあり得ないのかもしれないが、大切な事柄についての問いかけには、声をあげるなどして何らかの意思表示をする。だから現代医学での脳研究が十分ではないだけかもしれないが、肉体の一部である脳とは別に、本人の魂のような存在があって、その魂が様々な意思表示をしようとしている気がする」と話してくれました。
仏教などに於ける“霊的人生観”では、「人間の本質は魂であり霊である」、「人間は生き通しの生命(いのち)を生きている」、「転生輪廻を通して異なる環境を経験する」とされています。
つまり、人間には肉体とは別に魂や霊と言ったものがあり、霊の意思の表現装置としての脳が十分に機能しない場合に、現代の医学では意思疎通ができないなどと診断されてしまうということです。
つまり、仏教的霊的人生観では、人間は転生輪廻を繰り返している存在です。
障害を持つような人でも、本人や周囲の人に対して、その障害を通して学びを得て魂を高め、次の人生に繋げることができるのです。
こうした「肉体が十分に機能しなくても、そこに宿る魂は健全である」という考えが広まれば、障害者を安易に抹殺するような考え方には至らないはずです。
政府は、今回の事件を受けて、措置入院患者の支援強化など、精神保健福祉法を改正することで、再発防止に繋げたい構えですが、ここでも宗教的な価値観が問題解決のカギを握るということを理解する必要があると考えます。