国会では、安倍首相の「言論の自由」をめぐる発言が論争となっています(※)。
民放の番組でアベノミクスに批判的な国民の声が多く取り上げられたことに、安倍首相がおかしいと言いましたが、これを報道への圧力と受け取られかねないとの批判がありました。
この批判を、安倍首相は「言論の自由」を引き合いに出し反論しています。
安倍首相がどこまで理解して発言しているかは定かではありませんが、この「言論の自由」についてもう一度、その出所を考えてみたいと思います。
歴史的には、まず「信教の自由」が全ての自由の出発点としてあります。
人間一人一人が神の心の一部を表現しているのだから、どの教派にも真理が宿ることはあり得るので、どのような宗教・宗派であっても排除・弾圧してはならないという考え方が「信教の自由」として確立したのです。
この「信教の自由」から、当然の権利として自分の「信仰を告白する自由」が認められるようになりました。
更に、この「信仰を告白する自由」から、「言論の自由」が生まれたのです。
「信教の自由」からは、「自分たちの教会を建てる自由」も生まれていますが、「信仰を告白する自由」とともにこれらが、「思想・信条の自由」、「集会・結社の自由」、「学問の自由」などにまで広まったのです。
時には「報道の自由」にまで拡大されている「言論の自由」ですが、民主主義を担保する上で重要な要素ではあるものの、「言論の自由」が根源的な自由というわけではないことが分かります。
近代国家の自由の価値観は、「信教の自由」から生まれたのです。
※:3月13日付産経新聞http://www.sankei.com/politics/news/150313/plt1503130022-n1.html
参考:The Liberty Web編集長コラム「実は「自由」でない日本―「自由の大国」を目指して(Webバージョン)」http://the-liberty.com/article.php?item_id=9134