終戦から70年の今年、戦争の記憶を後世に伝えるためとして、数々の報道を目にします。
その中で、いわゆる「特攻」について、戦争の悲惨さを伝えるものとして象徴的に描かれています。
特攻は、敵への攻撃と引き換えに自らの命を確実に失うことになるため、現代では旧日本軍による愚行とする識者も多いように思われます。
確かに、自らの意思に反して特攻隊員にならざるを得なかった人や、いつ特攻隊員に任命されるのか心休まらない日々を送った人々もいたことは事実であり、たいへんお気の毒に思います。
しかし、特攻を日本の恥部と考え、特攻で散華した人々を犠牲者としてのみ捉える動きには賛成できません。
特攻隊員の多くは、日本や日本国民を守るという思いで、特攻の任に就いたのではないでしょうか。
こうした思いは、後世の日本人として、大切にし、尊敬すべきことではないでしょうか。
実際、終戦に近づくにつれ、特攻などによる被害に加え、特攻を見て日本軍の士気が高いことから、米軍は戦略の変更を余儀なくされ、多くの民間人の犠牲が予想される日本本土での上陸作戦が回避されたとする分析もあります。
特に、沖縄戦においては、大量に特攻機が投入されたにもかかわらず、成功率は極めて低く特攻隊員は犬死だったと印象づける報道もありますが、実際には、特攻による米軍の被害としては沖縄戦が最大でした。
戦後、左翼や、特攻という日本人の精神性に驚愕した米軍により、特攻の戦略的意義を低くしたいという情報操作の意図も感じられます。
私たちは、国や家族を守りたいという思いで散った人々のその思いを大切にして後世に語り継がねばならないと考えます。