ミャンマーの軍事クーデターで実権を掌握した総司令官が、2年後迄に再選挙を実施すると表明しました(※)。
ミャンマーでは、クーデター後、経済の低迷やコロナの感染拡大等で混迷が深まり、国民の不満は一層高まっています。
今回の総司令官の発言には、そうした国民の不満を和らげたい意図があるものと見られます。
ただ、ミャンマー軍としては、再選挙を実施するにあたって、前回の選挙で民主派が圧勝したことを教訓に、何としても軍が主導した政権を維持したいという思惑があります。
よって、引き続きスー・チー女史を始めとした民主派幹部の逮捕・投獄を続けるとともに、軍が設置した国家統治評議会などを通じた立法により、民主派を徹底排除した上で選挙を行うものと見られています。
ミャンマーでは、憲法によって、事実上スー・チー女史が国家の指導者に就任できないことになっています。
近代の民主主義では、法治主義は大切な価値観の一つですが、ミャンマーのように為政者にとって都合の良い法律を作って自らの権力基盤を維持し、国民をないがしろにする国があります。
これは中国や北朝鮮も同様ですが、為政者の権力を維持する目的で悪法を作り圧政を行えば、国民にとっては地獄のような世界が現れるということです。
そう考えると、法律を作るにあたって、あるいは、法律を作る人を選ぶにあたって、法律の上位に位置する普遍的な概念が如何に大切であるかが分かります。
その普遍的な概念とは、神仏の御存在です。
歴史を紐解けば、国の繁栄を築いた為政者は、すべからく神仏の心を体現するよう努力してきました。
これが「徳治政治」です。
中国においては堯・舜・禹の伝説然り、日本では聖徳太子や聖武天皇、アメリカではリンカンの偉業が歴史に刻まれています。
為政者の条件は、神や仏の心に照らして自らの心を振り返り、神仏より託された国民の幸せを実現することです。
反対に、神仏の存在を信じないリーダーが国のトップに立てば、国民に大きな不幸をもたらす場合があることを、歴史の教訓として忘れてはなりません。
※:https://www.47news.jp/news/6602858.html