【88年前の復興院、後藤新平が主導、問われるトップの力量】2011年3月28日 産経より
東日本大震災からの復興に向け与野党で「復興庁」や「復興院」を創設する構想が浮上している。
モデルは88年前の関東大震災で復興計画を立案した「帝都復興院」。総裁は後藤新平(1857~1929)だ。
ただ復興院が機能したのは、組織もさることながら、力量ある後藤という政治家の存在があったからのようだ。
大正12(1923)年9月1日昼の関東大震災で東京には焼け野原が広がった。死者・行方不明者は10万5千人以上。
震災被害も収まらない2日夜に山本権兵衛内閣が発足し、救援と復興の責任者となったのが内務相の後藤だ。
教訓に富むのは、後藤がすぐに明確な方針を打ち出したことだ。
内相就任の2日夜、帰宅した後藤はただちに机に向かって復興根本策を書き上げた。
そこには「遷都はしない」「復興費は30億円」の項目とともに東京の改造が宣言されていた。
「区画整理を伴う新都市計画実施のため地主に断固たる態度をとる」。
復興のためには決断が重要という後藤の考えがみえる。
後藤の大胆さは「復旧」ではなく「復興」を掲げたことからもわかる。
12日には、「復興」を掲げた詔書が発せられた。スピードも際だった。復興院発足(27日)は震災から1カ月かからなかった。
復興院は、震災で再び大きな災禍を受けないよう東京を改造し近代的な首都を造ることを目指した。
震災で焼けた下町地区に大規模な区画整理を施す。昭和通りや永代通りなどの幹線道路、歩道や公園、鉄筋コンクリートの小学校、同潤会アパートの整備も描いた。
後藤は医師出身で衛生行政に詳しく、都市建設のエキスパートだった。
台湾総督府民政長官や南満洲鉄道初代総裁、東京市長、閣僚を歴任した後藤。
構想が大きく「大風呂敷」とも呼ばれたが、政官財界に「後藤派」と呼ばれる人脈が広がっていた。後藤の人脈も復興院を支えた。
復興院建築局長は耐震論の権威で東京帝大教授の佐野利器(としかた)、経理局長には戦後国鉄総裁として新幹線を推進することになる十河(そごう)信二を起用。
実力派の官僚、専門家を集めた。復興院の計画をもとに政府は大正12年12月に復興予算を提出。
衆院で多数派だった野党政友会が削減したものの復興予算は成立し、同年末から、東京市などの協力で復興事業が始動した。
永田町では今、復興院論議が進むが、後藤のような人物がいるかどうかが問題だ。
引用、以上。
復興に関して一番の問題となるのは「財源」の問題であることはいうまでもありません。
しかし、関東大震災時の後藤新平内相が提案した帝都復興事業のような国民に「夢」を見せる計画を、単なる財源の問題だけで潰してしまってはなりません。
東北に未来を提示するような大規模な計画を、それこそオールジャパンの体制を構築する必要があります。
特に、東北復興事業においては、被災した東北の人々を日本で一番幸福にするというぐらいの一念を持って臨むべきです。
民主党型の「バラマキ」や「パフォーマンス」や、自民党型の「利権誘導型公共投資」では、断じて東北の復興を成し遂げることはできません。
後藤新平内相が提案した帝都復興計画は財源の問題によって縮小されましたが、結局、後藤内相は第二次山本権兵衛内閣が虎の門事件によって倒れたことによって失脚し、復興の主導権を握ることができませんでした。
その結果、東京大空襲の時に火災が大規模に広がるなどして被害が拡大したり、戦後の自動車社会において、首都圏の大渋滞が発生し、道路を新たに作り直したりする羽目に陥っています。
現在の人の目には大風呂敷に見える計画でも、50年・100年は通用する計画を立案しなくては意味がないのです。
政治家は遠い未来まで見据え、今は「大風呂敷」と批判されるような、大きな未来ビジョンを示さなくてはなりません。