Archive for the ‘教育・思想’ Category

2018/11/14【大谷選手の活躍が示すもの】

 大リーグエンジェルスの大谷翔平選手が、2位に大差をつけて新人王に選ばれました。

 既に日本球界で実績を積んだ選手が大リーグで新人王を取っても、何か日本球界が格下に見られているように感じる部分も正直ありますが、何はともあれ日本人としてうれしく思います。
 

 大谷選手の二刀流は、日本での入団当初、プロ野球関係者の多くが反対していましたが、自らの意志を貫いた大谷選手が、結果でそうした意見を跳ね除けたと言えます。

 もちろん反対した人は老婆心からだったのでしょうが、指導者としては、本人が単に願望を実現したいだけなのか、それとも本当に才能が隠れているのか、専門家であっても見極めることが大変難しいということも示したのではないでしょうか。

 ただ、前例に囚われないことが、新たなものを生み出す力につながことを証明した事例にもなりました。

 そして、忘れてならないのが大谷選手個人の努力の部分です。

 スター選手は華々しい活躍の場面が強調されがちですが、その裏には大変な努力の積み重ねがあります。

 
 大谷選手の目標を設定してコツコツと努力する姿勢は、高校時代から定評がありました。

 

 仏教には縁起の理法という言葉がありますが、努力の積み重ねが人生を成功に導くことは、どの分野でも共通した真理です。

2018/11/11【世界のスタンダード】

 ある紀行ドキュメンタリー番組で、日本人のテレビスタッフが、ギリシャのタクシードライバーに話を聞く場面がありました。

 ギリシャは経済的に苦しい状況が続いていますが、敬けんなギリシャ正教徒のそのタクシードライバーは、若くして不幸に遭う人もいれば大人になって不幸に遭う人もいるという旨のある種の“無常観”を語りました。

 それに対し日本人スタッフは、「それでも神を信じるんですか」と問いただしていました。
 

 この言葉を発した日本人スタッフの方に悪意は無かったと思いますが、そこには信仰を持つ人への無理解が現れているような気がしましたし、信仰が前提の国の人からすれば国際常識から逸脱しているように感じられたのではないでしょうか。

 「それでも神を信じるんですか」という言葉の裏には、「この世的な利益があれば信ずるし、なければ信じない」という損得勘定のみで判断するという価値観が現れているように思います。
 

 しかし、人間は生まれてくる前にあの世で人生計画を立て、人生の目的と使命を持って生まれてきます。

 そして、神仏の深遠な御心の前には、ちっぽけな人間の理解など及ぶはずもなく、だからこそ信仰者は全てを受け入れて日々を力強く生きていくのだという「信仰の優位」を自覚しています。

 これが世界の宗教のスタンダードです。

 
 ゆえに、世界の常識として、信仰に対する尊敬の念と、信仰者への正しい認識が必要です。

 
 日本のジャーナリストが、世界の信仰者から現世利益だけを追い求める野蛮人と思われないように配慮が必要だと感じたエピソードでした。

2018/10/20【表現の自由を守る精神とは】

 サウジアラビア政府に批判的な記者が、当局によって殺害された疑惑が世界中から注目されています。

 サウジアラビアは、ムハンマド皇太子のもと近代化への改革が進んではいるものの、中東の多くの国と同様、西欧流の民主化とは相容れない統治体制が残っているのが実情です。

 そうした中、同記者は、中東諸国に表現の自由が無いことを憂い、自由の必要性を訴え続けていました。

 いくら政権批判しても身に危害が及ぶことの無い日本などとは異なり、同記者は、ある意味、命がけで政権を批判していました。

 一方、日本では、18日、日中のメディア交流会が開催され、相互理解を深めるためにメディア間の連携などを確認しました(※)。

 しかし、中国には表現の自由が無く、中国のあらゆるメディアは中国共産党の指導下に置かれ、党の宣伝機関であるというのが実態ですが、そのことに懸念を示す日本のメディアがいたという報道はありませんでした。

 中国の報道機関のあり方に疑問を抱く日本の記者の方は多いと思いますが、交流会という席上相応しくないと思ったのか、中国側におもねる発言が占めたようです。

 しかし、報道人の命とも言える表現の自由を棚に上げて、真に交流を図るということができるものなのでしょうか。

 表現の自由は、信教の自由から発した民主主義の大切な考え方ですから、むしろこういう時にこそ中国に対し表現の自由の大切さを訴えるべきだったのではないでしょうか。

 そうした気骨ある記者こそが、真に自由・民主・信仰を守り、そして広げる力になると考えます。

※:10月19日付毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20181019/ddl/k15/040/072000c

2018/10/12【人類が求めてきた疑問への答え】

 地球上では残念ながら紛争が絶えません。

 その紛争の中には宗教対立に起因するものも少なくありません。

 特に、キリスト教とイスラム教徒と対立は深刻で、人類は根本的な解決の糸口をつかめないでいるようにも見えます。
 

 しかし、その宗教対立を終わらせる可能性を持った考え方を説いている人物がいます。

 それが、幸福の科学の大川隆法総裁です。

 
 大川隆法総裁は、著書『信仰の法』(※)の中で、キリスト教の開祖であるイエスが天なる父と呼んだ存在と、イスラム教の開祖であるムハンマドが神と呼んだ存在は、実は同じ存在であると説いています。

 つまり、キリスト教もイスラム教も根本となる存在が同じ神であるということです。
 

 現在、世界宗教と呼ばれる宗教は、それぞれ考え方が違っているように見えますが、それは民族性や文化性の違いによるものであって、もとなるものは一つなのです。

 
 この考え方が浸透すれば、宗教同士お互いは仲間であるということが理解でき、宗教に起因する争いは無くなるはずです。
 

 こうした大川総裁の教えは、画期的であり、他の誰にも説くことができません。

 まさに世界の宗教対立を終わらせる可能性を持った教えなのです。
 

 大川総裁は、先にドイツでも講演会を行い、聴衆を魅了しました。

 ドイツは、キリスト教の信者が多くを占める国ですが、大川総裁がこうしたグローバルな視点を持っていることが、彼の地でも支持を集める理由ではないでしょうか。
 

 日本は、近代、世界に対し自動車などの工業製品を輸出し、マンガなど文化も輸出してきましたが、今度は思想を発信する時代になりつつあると感じます。

※:大川隆法著『信仰の法』幸福の科学出版https://www.irhpress.co.jp/special/the-laws-of-faith/?utm_source=IRHweb&utm_medium=TOPbanner&utm_campaign=LP_the-laws-of-faith

2018/10/10【奉仕や忠義の心】

 就任直後の文科相が、教育勅語は現代でも使える部分があるのではないかという旨の見解を示したところ、野党や左翼系マスコミから批判を浴び、その批判は今も続いています。
 

 批判をしている野党や左翼系マスコミとしては、〝教育勅語は主権在民の考え方に反している上に、天皇のために死ねる人材を作るためのもの″との考えがあるようです。

 しかし、「親孝行の勧め」などを説く教育勅語の内容が全く正しくないと言える訳ではないことは、誰しもが認めるところです。

 特に、教育勅語にある「公への奉仕の心や忠義の心」といったものは、今の日本人にとっても必要な精神態度です。

 もちろん、「忠義の心など時代遅れだ」という考えの人があれば、そうした考えを持つのも自由だと思いますが、だからと言って、公への奉仕の心や忠義の心といったものは、否定されるべきものではなく、むしろ日本人として大切な徳目であると考える人も多いのではないでしょうか。
 

 来年4月から学校教育で道徳が必須化された今だからこそ、批判のための批判をするのではなく、その内容をこそきちんと議論すべきと考えます。

2018/10/07【公平なメディア報道とは】

 オピニオン誌『ザ・リバティ11月号』に「日本のメディアは宗教性悪説」という記事がありました(※)。

 確かに、週刊誌などの中吊り広告で宗教に関する記事は、首をかしげたくなるような見出しが躍ります。
 

 その一方で、日本には宗教団体が18万以上あるとされ、信者数を合計すると日本の人口を上回ると言われています。

 これは、日本人は宗教に対する関心が高く、必ずしも「宗教=悪」とは考えていないということを示しているのではないでしょうか。
 

 であるならば、メディアは、宗教絡みの報道は宗教が事件を起こした時だけ取り上げるというのではなく、宗教の内容・教えを取り上げることも必要なのではないでしょうか。

 宗教には正邪があります。

 残念ながら中には問題を起こす宗教を名のる団体があったことは事実ですから、宗教の正邪・高低を判断するためにもメディアには客観的な報道が求められるはずです。
 

 また、特定の宗教を好意的に取り上げることは伝道活動を後押しすることになり公平感を欠くという理由で、メディアが好意的に宗教を取り上げることはあまりありませんが、例外は、伝統宗教です。

 個人の心の問題などについて僧侶の話を聞くと言ったものが多く、実際に参考になる話もあると思います。

 ただ、伝統宗教は、複雑化する現代社会の問題の全てに必ずしも応えきれているとは言えず、むしろ現代社会に対し適応不全を起こしている例も少なくありません。
 

 だからこそ、新宗教といえわれるものが支持を拡大しているのではないでしょうか。

 ですから、同じように社会的信用が確立されているのであれば、新宗教と言われる宗教であっても、メディアは公正に報道すべきではないでしょうか。

2018/09/24【中国の司祭を法王庁が追認】

 対立していたバチカンのローマ法王庁と中国政府は、中国国内のカトリックの司教の任命について暫定的に合意したとのことです。

 具体的には、中国政府が任命した司教を、ローマ法王庁が追認するということのようです。
 

 これは、事実上、中国では共産党がローマ・カトリックを管理するということであり、ローマ法王庁が中国共産党に屈したと言えるものです。

 ローマ法王庁としては、中国の巨大な人口を見据え、大局的な立場で妥協したのかもしれませんが、自らの立場を貶める行為につながりかねません。
 

 そもそも中国共産党は唯物論の立場であり宗教とは相容れません。

 そして、中国共産党の統治の根底には、如何に一党独裁を維持するかという考え方があります。

 キリスト教にはイエス・キリストの信仰と愛の教えが流れています。

 そして、長い歴史の中で多くの人の心の支えとなり、苦しみから救ってきたという事実があります。
 

 ですから、中国共産党とキリスト教は、本来、どちらが普遍的のものとして上に立つべきか明らかです。

 にもかかわらず、今回、法王庁が妥協したことで、中国国内のキリスト教信者に対しては、共産党のほうが上であることを示す結果になったと言えそうです。
 

 法王庁は、今回の件に関し、「政治的なものではなく、宗教的なもの」と説明していますが、むしろ「宗教的なものではなく、政治的なもの」と説明したほうが、宗教の権威が保たれるのではないでしょうか。

 信教の自由は民主主義を支えるためにも大切な権利であるということを忘れてはなりません。

2018/09/20【霊的価値観から現代の諸問題を考える】

LGBTと呼ばれる性的マイノリティの人について、国会議員の主張が物議を醸しています。
 

極論として、LGBTがどんどん増えるようなことあれば、医学・生物学の進展を無くして人類の存続は無いのかもしれません。

しかし、そうした考えは行き過ぎであるとして、現にLGBTと言われる人がいる訳ですから、性の多様性は認められるべきだと考えます。
 

最近では、LGBTに対する理解が進み、LGBTとして前向きに生きている人が増えている一方で、「何で自分だけが」と悩む人も多いと聞きます。
 

しかし、どんな性差で生まれようと、その人生には意味があります。

ただ、自分なりに納得できるその意味を、唯物的な社会の中で見つけ出すことは容易なことではありません。
 

やはり、宗教的な解釈や霊的な価値観を抜きにしては、性差が生じる理由を知ることはできないのではないでしょうか。

しかも、伝統的な宗教の教義だけでは、現代的な問題に対する有効な処方箋を出し難いという事情もあります。
 

必要なのは、次々に噴出する新たな問題に対処できる教えです。

正しい宗教には社会がどのように扱っていいのか定まらない問題に対しても、見識と論理性を持って方向を示す力があるのです。

2018/09/17【『南洲翁遺訓』に学ぶ心構え】

 西郷隆盛の言葉をまとめた『南洲翁遺訓』には次のような一節があります。

 「人を相手とせず天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ね可し」。

 これは、天意を汲んで生きるということであり、相手を非難せずに自分の足らざる部分を反省せよという意味です。
 

 また、別の一説には、「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些なくとも私を挟みては済まぬものなり。」とあります。

 これは、政治は天の代理で行うものであるという意味が含まれています。
 

 大河ドラマでの西郷隆盛像は別として、実際の西郷隆盛は、「天」という人間を超越した畏れ敬うべき存在を認識した信仰心の厚い人物であったことが伺われます。
 

 西郷隆盛のこれらの遺訓は、現代の政治家にとっても心に留めるべき大切な心構えではないでしょうか。

 ここから伺える政治家像は、批判されたり不祥事に際しても、責任を他に求めず、まず自身の努力や徳の足らざるを受け止め反省すること。

 また、バラマキなど、大衆迎合的な政策に陥り、そのツケを将来に回すようなことが無いこと。

 

 よって、『南洲翁遺訓』は、為政者にとって、己を空しくして、天の代理として政を行っているという姿勢を忘れてはならないと教えていると思います。

【参考】:HSエディターズ・グループ 編『偉人たちの告白』幸福の科学出版https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=426

2018/09/03【人はなぜ生まれて死ぬのか】

 ラジオで、夏休み中の子供からの質問に各界の一流の専門家が答えるという番組がありました。

 
 その中で、「人はなぜ生まれて死ぬのか」という子供からの質問に対して、科学の専門家の先生が回答していました。
 

 その先生の回答は、生物を構成している細胞は分裂する回数が決まっているからいつかは死んでしまうということ、本人が死んでも生命は子供たちに受け継がれていくなどということでした。

 

 その先生も、たいへん苦労をされて答えていらした様子でした。

 しかし、あくまでも科学的な立場としての回答であり、「人はなぜ生まれて死ぬのか」という問いの答えとして、腑に落ちたという人はそう多くは無いのではないでしょうか。

 近年で言うところの科学的な立場とは、言い方を変えれば唯物的な立場です。

 しかし、唯物論の解釈では人生が空しく感じられてしまいます。

 また、現代の哲学が論じている人生観も唯物的解釈の域を超えません。
 

 やはり、「人はなぜ生まれて死ぬのか」という問いに対する答えは、宗教的な理解が必要です。

 霊やあの世の存在を認めることなくして、人生の深い意味を解き切ることはできません。

 霊的な真実を認めることで、人は生老病死の苦しみから逃れることができるのだと考えます。

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